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 一説には江戸の豪商。紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられています。その後、享保年間(1716〜1736年)に下総国、関宿の城主久世大和の守の下屋敷となり庭園のもとが形造られました。 明治11(1878)年に岩崎彌太郎がこの邸地を社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を計画、明治13(1880)年に「深親睦円」を開園しました。その後も造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水をはじめ築山、周囲には全国から取り寄せた名石を配して明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」として完成しました。昭和54(1979)年3月31日には、東京都の名勝に指定されています。※なお、大正12(1923)年9月の関東大震災や昭和20(1945)年3月の大空襲の時に避難所として多くの命を救いました。
泉水 広い池に三つの池を配し、数寄屋造りの建物、水面に小島木々の影を映す庭園の要です。昔は隅田川から水を引き、東京湾の潮の干満によって微妙に変化したといわれていますが、現在は雨水でまかなわれています。
名石 岩崎家が自社の汽船で全国の名石を各地から集め、園内に配置したものです。その代表的な伊豆五十石、生駒石、伊豆式根島石、佐渡赤玉石、伊予青石、相州真鶴石、備中御影石、加茂真黒石、京都保津川石、讃岐御影石、根府川石、などがみられます。このほかに敷石や磯渡の石を含め、無数の石が配置され、「石庭」を見るかのようです。
凉亭 日本情緒を豊かに醸し出す数寄屋造りの凉亭は、明治42(1909)年に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために、岩崎家が建てたものです。昭和60(1985)年、全面改築工事を行い現在に至っています。
芭蕉の句碑 「古池や かわず飛び込む 水の音」。最も有名なこの句を刻んだ石碑が、園内に立てられています。もとは隅田川の岸辺にあったものを、護岸工事のときに移したものです。  
大正記念館 大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移築したものでしたが、戦災で焼失してしまいました。昭和28(1953)年に貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建され、現存する記念館は平成元(1989)年4月に全面改築されたものです。
磯渡 満々と水をたたえた池の端に石を飛び飛びに置いて歩けるようになっています。磯を渡るように歩を進めると、池の魚や木々の緑など、景観の変化を楽しむことができます。
富士山 全山がツツジとサツキで覆われ、別名を「つつじ山」ともいいます。本庭園内では最も高く大きな築山で、毎年5月初旬には、山全体が花で燃えたつように色付きます。  

都指定名勝 清澄庭園 パンフレットより
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